HERE IS LOVE

今年3月20日(日)のことですが、私の通っている泉北ニュータウンバプテスト教会アメリカからある歌手が来られました。このMark Herbster氏から、信仰の証と賛美を聴きました。兄弟3人でHerbster Trioを組んで、米国国内だけでなく海外にも出向かれ、賛美を通して伝道の働きをされているそうです。
このとき氏が持ってこられた6枚のCDが手元にあるのですが、東日本大震災の対応や会社の一大イベントである株主総会など、重要な業務に追われ、また夏は台湾旅行で浮かれていましたので、じっくり聴いたのは、秋になってからでした。
そのうちの1枚、Trioのお子さんたちで構成するHerbster Cousinsの「come,Children,join to us」に収録されている「HERE IS LOVE」は、きれいな歌声、美しい旋律、素晴らしい歌詞で、心にジーンと響くものがあります。
歌詞の1番は次のとおりです。
 Here is love, vast as the ocean, Loving kindness as the flood,
 When the Prince of Life, our Ransom, Shed for us His precious blood.
 Who His love will not remember? Who can cease to sing His praise?
 He can never be forgotten, Throughout Heav’n’s eternal days.
教会で使う聖歌集には掲載されておらず、私はこのCDで初めてこの曲を知ったと思います。
また、聖歌でも賛美歌でもない30年ほど前に流行した曲で、最近感動し、涙が出そうになった曲があります。これについては、あらためて書いてみたいと考えています。

町家での弦楽四重奏

堺では、10月の終わりから11月の初めまで、普段なかなか見ることのできない町家が公開されます。昨日の11月3日は、娘と見に出かけました。
戦時中、堺の中心部は焼夷弾によって焼き尽くされましたが、旧堺市内、つまり環濠で囲まれた自治都市時代の堺の街でも北のほうは比較的災禍を逃れました。たとえば、北半町、北旅籠町、桜之町、綾之町、錦之町などです。
2年前も娘と二人で来たのですが、この界隈は古い町屋が残っていて、実に風情のある佇まいです。
まずは、北旅籠町の「朝日堂菓子舗」で最中を6つ購入。その後包丁や日本刀を昔からの製法で作っている桜之町の「水野鍛錬所」で工房を見せていただきました。またそのすぐ近くの「七まちびいどろ」で小4ぐらいの女の子がトンボ玉の体験製作をしているのをしばらく見ていました。娘もやってみたいと言いましたが、ガスバーナーを使うし、指導してくれる店主とコミュニケーションが取れないだろうから、今度来たときにしようと諦めさせました。
そのあと昼食をと思い、ざるそばを食べようと錦之町の「鳳翔館」に行きましたが、満員でした。あたりをいろいろ探しましたが、ファミレスもありません。さんざん探して入ったのが、喫茶店。メニューは限られましたが、娘の注文した卵サンドは大正解。おいしい、おいしいとすぐ完食。
昼食後は「山口家住宅」に向かいました。ここは2年前も娘と来たのですが、建てられてから400年近く経っている商家です。今は整備され、堺市立町家歴史館となっています。ここで2時から「アンサンブルコンサートin文化財」というのが企画されていたので、今回はこれを目当てにやって来たのでした。
主家の土間で大阪交響楽団のメンバー4名がバイオリン、ビオラ、チェロで数曲演奏してくださいました。聴衆は土間と、あがりのところと畳の間3室の襖を取り外して一間にしたところで全部で200人ぐらいはいたと思います。第1バイオリンの方が演奏会を進めてくださいましたが、トークも面白かったし、もちろん演奏のウデも第一級です。3曲目の「プリンク・プレンク・プランク」という曲は、演奏者4人とも弓を使わない曲です。バイオリンもビオラもまるでギターのようで、またチェロは小ぶりのウッドベースといった感じでした。こんな面白い曲もあるんだと感心していたら、「赤とんぼ」や「川のながれのように」では大合唱。演奏者と聴衆が一つになった楽しいコンサートでした。
「音楽」というのは音を楽しむもの、聞いているほうが緊張しては「音苦」になってしまいますよね。
娘に楽しかった?と聞くと、ウンと頷いてくれました。この楽しさ、喜び、気持ちをいつまでも持っていてほしいと思った一日でした。

カーペンターズのYesterday Once More

先日たまたま入手したiPod Shuffleに、手持ちのCDから、ビートルズの赤、青、そしてカーペンターズのNow & Then、アバのベストを入れました。
私は、出勤のため堺東からバスに乗るのですが、ビートルズカーペンターズをよく聴いていた高校生のとき、授業が自習になったときは、学校を抜け出してこの界隈をうろうろしていました。勉強はそっちのけで、残り時間を気にしながら一生懸命カセットテープに録音していたことも思い出します。
あれから、37年が過ぎ、わずか3センチ足らずの電子機器から聴こえてくるビートルズカーペンターズ… その中でも、とりわけ Yesterday Once More は当時の自分と重なり、懐かしい曲です。
今の若者、LPレコードやカセットテープってわかるだろうか? 時の流れを感じます。
昨日から福島県いわき市の工場に出張し、今日帰ってきましたが、行き帰り大変重宝しました!

行ってきました! 台湾に その4

5日目は緑島に行きました。

台湾に来てから5日目の7月26日(火)は朝から、台東沖の「緑島(リュィーダオ)」に渡った。船で1時間弱だが、揺れることもあるらしい。それで、私たち7人は乗船前に酔い止めの薬を飲み、ことに臨んだが、結果的には船はまったく揺れることなく、緑島に着いた。
下船後、グラスボートに乗った。船底の両サイドがガラスで水中が見えるようになっている。船が出てしばらくすると、急に海底が深くなり、熱帯魚や珊瑚が次々と見える。ウミガメにも遭遇した。
40分ほどの海中散歩を楽しんだ後は、いよいよスクーターを借りて、島内約20㎞を1周することになった。私自身は原付に乗らなくなってから20年以上経っているので、運転できるか不安があったが、借りたスクーターの調子も良くなく、安全運転をせざるをえなかった。


上の写真は最初のビューポイントの灯台。とにかく好天に恵まれ、青い空と碧い海が感動的だ。
ところでこの緑島は、もともと政治犯流刑地であった。今は刑務所ではなく、人権記念公園になっているとのことだ。
左の写真は、「小長城」というところから撮った海岸の様子。青い空と碧い海が広がっている。こんなきれいな景色を見たのは初めてだ。







今回の台湾訪問最後の夕食は、教会のWさんのご招待で「原生応用植物園」の中にあるレストランで鍋をご馳走になった。鍋というと、日本では数人で一つの鍋をつついて…といったイメージであるが、ここでは「全自助式」、つまりセルフである。鍋は写真のようにひとり一個ずつセットされ、IHで熱する。材料はいわばバイキング方式で自分で好きなものを持ってくるのだ。ここでは「植物養生」を謳っており、薬草類を含め植物系はこの植物園で採れたものだ。
最初は味付けに不安があったが、やがてそんなことは吹っ飛び、おなか一杯食べてしまうほど、今回も大変おいしくいただいた。
食後は、近くの知本温泉に向かい、夜11時まで温泉に入った。一番動き回った一日であったが、この温泉で疲れは癒えた。
その帰りで見た星空の素晴らしいこと。大阪ではまず見えない天の川まではっきり見えた。

行ってきました! 台湾に その3

1ヶ月前の旅行なのにまだまだ感動が続いています。4日目は台東に行きました。
7月25日(月)、朝から台中を出て高速道路で高雄経由でいよいよ台東に向かう。この台東、ここはO宣教師が長らく牧会していた十股浸礼教会があるところなのだが、O家のY君やAちゃんにとっては、「行く」というより「帰る」という感覚なのだ。
しかし、台湾には富士山よりも高い玉山を含む険しい中央山脈が南北に走っている。台中から台東に行くにしても、この山脈を東西に横断する道路がないため、鉄道も道路も北廻りか南廻りで行くことになる。運転をしていただいた宣教師のO氏には気の毒だが、同乗者の6名は皆眠そうだ。クルマは高速で高雄まで行き、一般道でまだまだ南へ行き、途中で遅めの朝食となった。その後しばらくは道路の両側はマンゴーなどを販売する店が続く。
写真はマンゴーを買い求めた店で撮ったもの。
女主人は気前よくマンゴーの試食をさせてくれた。値段も日本円で1個280円ほど。これがまたおいしい。後で食べようといくつか買い求める。今回の訪台の目的のひとつに、フルーツを堪能することがあった。日本では手軽には味わえない、マンゴーやライチなどが、安く、そしておいしく食べられたことに大満足であった。
その後、クルマは台湾の最も南部を走り、やがて山越えをして、太平洋が見える東海岸に来る。写真は、途中で撮った海岸線。南廻線と呼ばれている鉄道も見える。台湾南部の大都市、高雄から台東を経て、花蓮台北につながっている。台湾には、台北や高雄にある地下鉄のほか、高速鉄道(高鉄)と在来線の台湾鉄道(台鉄)などがある。今回、台湾をぐるっと一回りしている台鉄に乗れなかったのは残念だったが、これは次回のお楽しみとしたい。
さて、やがてクルマは台東縣に入る。O氏夫妻にとって、この台東は長らく宣教をしてきた土地なので、地理に詳しいし、どの店においしいものがあるかもよく知っている。そこで、お勧めの昼食は、辛めのラーメン。既に30人ほどのお客さんでいっぱいだったが、席を譲ってくださったりして、7名同じテーブルに。人気の牛肉入り、辛めをおいしくいただいた。もうワンランク辛くなるとギブアップだったかもしれなかったが…
その後、「布農(ブヌン)部落」に行った。布農族は台湾の少数民族で、ここは一種のテーマパークといえる。到着時、鮮やかな民族衣装をまとった若者や子どもによるダンスショーをやっていた。一帯は農場があったり、またTシャツ、ジャムやジュースのほかさまざまな民芸品が販売されていた。その中でも機織りによる名刺入れやペンケースは色鮮やかで、私は自分へのお土産とした。

布農部落をあとにクルマで市内に行く途中、道端でライチが売られている。
それは、O宣教師夫妻旧知のおばさんで、とれたてを道端で枝落としし、小分けしながら、売っていたのである。
出発前は時期的にライチは大丈夫かな、と心配していたのだが、ほとんど最後のタイミングで、私たちはとれたてのおいしいライチを食べることができた。これまたラッキーであった。写真は、そのすぐそばの畑で木になっているライチ。
随分まけてもらって、いったん宿泊先の民宿へ向かった。民宿といっても、日本とは違い経営者の自宅は別にあるらしい。1階に食堂、2階より上は宿泊用の部屋となっている。

部屋割りをし、荷物を置いて、いよいよ十股浸礼教会に向かう。O家のY君やAちゃんは少し緊張しているみたい。久々にこちらの友達と会うからだ。
教会前でAちゃんの旧友の女の子たちが出迎えてくれた。最初は戸惑いながらも、やがて中国語でしゃべりだすY君やAちゃん。中国語がさっぱりわからない私にとっては羨ましい限りだ。教会では、O宣教師の留守をしっかり守ってくださっているW兄弟はじめ大勢の人たちが私たちを迎えて下さった。1年前に堺にやってきたこちらの3人の若者もいる。2階での歓迎パーティのあとは、1階の礼拝堂でW兄弟やO宣教師のメッセージのほか、私たち3人の証しタイムもあった。台中のときと同様、私は笑いをとりながら、SさんとA氏はまじめに証をした。あの若者たちの賛美も素晴らしかった。普段から賛美や奉仕を進んでやっていると聞き、涙が出るほど
嬉しかった。時間はあっという間に過ぎ、みんなで写真を撮ってお別れ。民宿に戻るも、Wさんの招待で、O宣教師、Sさん、A氏とともに今度は郊外の中国茶の店へ。町を見渡せる高台にあり、夜景のなんときれいなことか。また夜になると幾分か涼しくなる。お客さんも結構入っている。Wさんとの会話はO宣教師に通訳を願い、高山茶とつまみのお菓子で、1時間以上も喋る。台湾でのお茶の入れ方・飲み方、台東のこと、教会のこと、仕事のことなどなど。
すっかり時間が経ってしまい、歓迎会のことも含め、大変お世話になったことのお礼を言って、民宿に戻ったのは夜中。でもこの時刻でも町中は店が開いているところもあり、活気がある。すごいパワーだと思う。

行ってきました! 台湾に その2

今日は、台湾訪問その2です。台中での2日目を書きます。
台湾3日目、台中2日目の24日は日曜日ということで、朝10時から礼拝。台中市大甲区にある大甲福音浸礼教会は、4階建てのビルで1階が教会(左の写真は正面から撮ったもの)、2階より上が牧師の住居となっている。隣はバイク屋さんと、パソコンの部品屋さん。この日は、大阪から来た3人の信徒が出席者にそれぞれどうして信徒になったのか証しをした。もちろん日本語で話すのだが、それを日本語が堪能なある信徒のかたが中国語に翻訳してくださった。
私は、人前で話す以上まず聴いてもらわなければと思い、「私はこの7月に54歳になりました。50年間は大阪で、4年間は福島にいました。台湾には3日おります。」これで大爆笑を誘った。つかみはOK。(といっても10人位の人たちで、しかも皆さん最初から聴く気満々。) 調子に乗って、「昨夜足裏マッサージで調子の悪いところをズバリ指摘されました、しかし性格が悪いとは言われず、一安心しました」と言うと、またまたドッカーン。(笑わさなアカンというのは、大阪人の悲しい性分)。
このあと、教会に行くようになった訳、まかり通っている進化論や偶像崇拝が間違いだと気づいたこと、真の神を信じることを心からお勧めします、などと話した。
あとSさんやA氏はまじめに証をし、その後O宣教師からメッセージ(ただし中国語なので意味不明)、いつもの予定より30分ほど遅れて礼拝が終了すると、この教会恒例?のお菓子とジュースでの交わりタイム。40分ほどだが、台中のお菓子やケーキをいただきながら、ワイワイと談笑をした(もっと、中国語を勉強しておくべきだった!)。初めて会う人ばかりなのに親しくしてくださった。本当に楽しいひと時であった。
この後は、台中から南西にある鹿港(ルーガン)に向かった。ここは、昔大陸との交易が盛んだった港町。高速道路で1時間足らずで到着。
まずは遅くなってしまった昼食をとろうと、クルマで店を探す。入ったのは、外見は日本のファミレスのような感じの店。メニューを見ながら、これはどういうものかとても親切な店員さんに聞きながら、いろいろなものを一つずつ注文した。日本人にもあう、おいしいものばかりだった。こういう訳で、日本人7人は、店の昼の営業時間を随分延長させてしまったみたいで、ゴメンナサイ。





そのあと鹿港の町を歩く。左の写真は、古い街並みで撮ったもの。レンガ造りの民家が多く、道は狭く、曲がりくねっている。日本人観光客はまだまだ少ないようで、お勧めのところである。

行ってきました! 台湾に その1

7月22日(金)から27日(水)まで台湾に行ってきました。その珍道中を記してみます。

一行は、O宣教師の奥さん、その子どものY君とAちゃん、そして泉北ニュータウンバプテスト教会のSさんとA氏と私の計6名。便は、関空17時15分発のジェットスターアジア航空。チェックインを済まし、搭乗すると、なんとO宣教師の奥さんたち家族3人と、私たち3人の航空券は別々に購入したのに、何と6人横1列。ワイワイがやがや言っているうちに、夕刻台湾の桃園国際空港に到着。先に訪台していたO宣教師が出迎えてくれ、彼の案内で、まず夜市で有名な台北の士林に直行した。クルマをとめた後、夜市で珍しい食べ物?を横目に、私でも食べることができる台湾式のフライやお好み焼き、フルーツジュースなどを堪能し、私とA氏は、以前泉北ニュータウンバプテスト教会で受浸し、今は台北に住んでいるH氏の案内で台北郊外の「経済的ホテル」に宿泊。他の方は、O宣教師とともに台中市の大甲福音浸礼教会に向かった。この教会の牧師は今宣教報告のため日本に帰国中なので、O宣教師がその間牧会の務めを代理しているのだ。
翌23日は、H氏の案内で「中正紀念堂」に行き、衛兵の交代を見学。1時間、ピクリともしない衛兵にはビックリ。そのあと世界で2番目に高い「TAIPEI101」に行き、89階の展望台から台北市内を眺めた。高い、ただただ高い、という感じだ。
遅めの昼食は郊外山手の「猫空」というところにある食堂でゆっくりいただいた。
その後、高鉄(新幹線)で台北から台中まで行き、駅に迎えに来ていただいたO宣教師家族とSさんと合流。
7人での夕食は、1950年代にタイムスリップし、台中市内にある「台湾香蕉新楽園」でとることに。

店の外に古い客車を置き、店の中は昔の台中の町並みを再現したノスタルジーあふれるレストラン。日本の懐かしい看板もあり、中年(初老?)のオジサンにはお気に入りの場所となった。
その後、O宣教師いわく「台中に来たら、足裏マッサージを受けてもらわなければなりません。体の悪いところを指摘してくれます」。私は、車中で話題を変えて失念させる作戦に出たが、ことごとく失敗。無理やり「呉神父」という有名な店に連行された。
カトリックとは関係あるかどうかはわからないが、どうも神父さんがマッサージをしている訳ではないらしい。紛らわしい店名だ。しかしこんな不平を言っても仕方がない。諦めるしかない。ともかくO宣教師夫妻は、どうやら私がツボを押されて「痛いッ!」というのを見たいらしい。
ところが、ところが…。最初10分ほど、足を湯につけ、頭と肩のマッサージ。これが頗る気持ちいい。五十肩も随分楽になった。その後、いよいよ足裏マッサージに移るのだが、これも心地よい。一緒にうけたSさんやA氏は、痛そうな表情をしていたようだが、私は、痛みを感じることはなかった。「どう、痛いでしょう?」と期待を込めた質問に「まったく、痛くない。余裕のよっちゃん!」と答えると一同大爆笑。でも、しっかり、胃、腰、鼻が良くないはずだと指摘された。実のところ胃にポリープの痕跡ありと毎年検診結果が出ているし、ぎっくり腰もやった。春はいつも花粉症で苦労している。じゃあどうすればよいの? 食事はゆっくり摂ること、バナナや炭酸飲料はダメ、早歩きを奨める、夜更かしはしない、といったアドバイスがあった。
なお、O家では「余裕のよっちゃん」がブレイクしているとか。