2回目の台湾旅行(その1)

 昨年に続き、真夏の台湾を訪れた。今回は一人旅で、目的は鉄道で台湾を一周すること、やがてこの台湾を離れるO氏一家と会うこと、そして台湾の人々との中国語や英語でコミュニケーションが図れるか試して度胸をつけることである。
 7/16(月)関空12時45分発のジェットスターアジアで出発。桃園國際機場には予定どおり14時15分に到着。
 入国審査は問題なし。税関は申告するものがなく、そのまま通過して入国。まず日本円6万円を台湾元22,212元に交換。天気は晴れ。そして、國光客運バスで台北車站へ向かう(125元)。ところが、途中から雲行きが怪しくなり、そのうち激しい雷雨。約1時間で着くが、その時点ではほぼやんでいた。その後も幸い台湾滞在中、雨は降らなかった。
 台北車站では、まず1階の旅遊服務中心で台湾鉄道の時刻表を求める。このフレーズの中国語の一言カードは用意していなかったので、英語で尋ねる。有料だと思っていたら、なんと“Free”との返事。1日目からラッキーだ。そして、予約しておいた馨憶精緻民宿に向かうため、花蓮までの切符を購入する。この場面では用意していた中国語一言カードが役立った。しかし、予想通り、太魯閣號は取れず、17時10分発の自強號となった(440元)。民宿のオーナーの片桐さんは花蓮車站まで車で迎えに来ていただけるとのことだったので、20時04分頃到着と電話を入れた。
 さて、出発まで時間があるので、2階で飲食店を探す。フードコートもあったが、まだ勝手が掴めず、Japanese Restaurant「大戸屋」で手ごねハンバーグ定食を注文。これについては、日本で食べるほうがおいしいと感じた。しかも、サービス料含め308元とはちょっと高めか?
 その後、いよいよ花蓮に向かうため、改札に入る。暗い地下の月台(プラットホーム)に自強號が入ってくる。指定された3號車の5號の座席は2列目かと思っていた。しかし、乗車すると、1列目にあたるところの座席が外され、そこは荷物置きのスペースになっている。つまり、実際には1番前の席で、しかも、進行方向左の窓側。宜蘭線、北廻線と進むのだが、途中太平洋に浮かぶ亀山島や沈み行く夕日もよく見えた。
 花蓮車站に着いたときは、すっかり夜で、片桐さんが迎えに来て下さっていた。車中で花蓮の歴史を教えていただく。

 7/17(火)は、まず民宿近くの「液香扁食店」で腹ごしらえ。ここは60元のワンタンのみ提供している、地元でもお勧めのお店。味はあっさりで、日本人にもあうと思う。花蓮は、台湾屈指の景勝地である太魯閣渓谷の最寄の街。しかし、今回は台東のO氏一家に会うのが、一つの目的。よって、とても残念だが、太魯閣渓谷に行くのは次回以降としよう。






 民宿から花蓮車站まで車で送っていただき、10時30分発の自強號で台東に向かう(345元)。2時間10分の乗車。列車の中の涼しさ(寒さ)とホームに降り立ったときの真夏の暑さとのギャップがすごい。
台東車站ではO氏の娘のAちゃんと、地元の教会のRちゃんがわざわざ改札まで迎えに来てくれていた。O氏の車まで案内してもらい、その後ほかの家族や教会のユースと合流して、市内の「南北餃子館」で昼食をとった。ここはガイドブックには載っていないが、水餃子、小籠包、炒飯すべてなかなかの味だ。





 その後、車でO氏一家とともに郊外の福鹿山に、気球を見に行った。夕食は、台東市内の「姿仁」で。宿泊は、1年前も泊まった「愛加倍民宿」。勝手がわかっていたので、戸惑うことはなかった(1,000元)。
 7/18(水)は、台東から台鉄で高雄へ移動した。
 O氏に、民宿から台東車站まで車で送っていただき、ここで別れた。ご家族のこれからの生活が守られることを祈るのみ。
 しかし、その後今回の旅行の2大ハプニングが起こった。まずは、高雄までの自強號の切符がうまく取れず、12時48分発の莒光號を待つしかなかった(279元)。それまで1時間あまり、改札前でうろうろするしかなかった。これは、前日に切符を確保しなかった自分が悪い、としか言いようがない。
 それでも、南国の厳しい暑さの中、駅舎を撮ったり、売店を覗いたりして時間をつぶし、ようやく莒光號に乗り込んだ。今回の旅行では、駅弁を食べることを楽しみにしていたのだが、台東車站の売店で買った弁当(70元)が暖かくて、おいしかったこと。しかも、またまた座席は進行方向左の窓側で、途中から碧く澄み渡る太平洋が一望できた。ところが、カメラのシャッターが突然下りなくなった。これが2つ目のハプニング。旅はこの日を入れてあと4日ある。その間写真がないのは実にもったいない。代わりのコンパクトデジカメを買わなければ、と判断。
 高雄車站に着くや、事前にいくつかリストアップしていたホテルのうち、車站から徒歩5分のところにある金馬大飯店に急いだ。フロントは日本語も通じ、訊いてみると空きがあるということなので、ここに決める(880元前払い)。そして、近くにデジカメを売っている店がないか訊く。すると、高雄車站の前の大通りを右に曲がって、筋を2つほど渡れば、電脳街になっているから、デジカメを扱っている店があると、親切に教えてくれた。早速、荷物を部屋に置いて、電脳街に行って見る。
 あるカメラ専門店の前の商品案内の看板を見ていると、若い女性店員が出てきて、中国語で喋ってきた。多分「カメラをお探しですか?」と訊いたんだろうと思う。このハプニングは想定していなかったので、中国語の一言カードは用意しておらず、彼女は英語が少しできるというので、以降英語でのやり取りとなった。
 店の中で、日本から来たこと、6日間の台湾旅行の3日目だがデジカメが故障したことを説明し、手ごろなデジカメがほしい、と言うと、予算やスペックを訊かれた。予算は3,500元ぐらいまで、画素数は14メガ以上、今のSDカードが使え、できれば充電式ではなく電池式のほうが良いと希望を言うと、ニコンのコンパクトデジカメを提案してくれた。シルバーとブルーのどちらが良いか訊かれたが、ブルーを選択した。少し値切って3,680元。
 保証書もちゃんと記入してくれたが、「台湾でしか保証は利かない」と言われた。「じゃ、そのときはまたここに来るよ」と余裕の返答。この女店員は親切に対応してくれたと思う。最後に、この女店員、胸元に十字架のペンダントをしていたので、あなたはクリスチャンかと訊くと、「そうじゃない。これはクリスチャンの友達からもらったの」との返事。そのことは残念だったが、謝謝と言って店を出た。

定年の準備

あと5年足らずで、定年を迎えます。
娘はまだ小学生だし、これからも生活を支えていかなければなりません。そのため、この夏から重荷になっていることはなくす、今からできることは準備をする、との方針で動き始めました。
まず、教会をかえました。何も聖書への考え方が違うからというのではなく、自分にもっと合った雰囲気の教会に早く移りたいという気持ちが前々からありました。9月から行っている教会は、自由な雰囲気で、それでいて計画性があり、信徒も若い人から年配の方まで大変多く、何でも気持ちを共有しているところが気に入っています。気分もずいぶん楽になりました。
そして、会社を辞めたときに何ができるか考えてみると、ますます老齢化が進む社会で、相続や後見といったことで個人のお役に立てること、そして会社での今までの経験を生かして法務部門のない中小の会社のお手伝いをすることが相応しいのでは、と思っています。幸い、そのために必要とされる国家資格の試験にもすでに合格しています。
平均余命を考えれば、まだまだ若い人たちに負けられません。

株主総会、終わった!

会社の一大イベント、株主総会。毎年毎年、直前になると、胃がキリキリ痛む。
これまで、何かあったわけではないが、だからといって今年も何もないとは限らない。
だから、万全の備えをする。もっとも何が万全か、よくわからないが… 
法律で決められていることは、一つひとつつぶしていく。想定される質問の用意はしておく。
総務部だけでは人員が足りないから、他部署にも運営の協力を依頼する。

すでに議案はすべて過半数の賛成を得ている。このことが、余裕となる。
前日のリハーサル。特に問題なし。そして、当日を迎える。
ようやく居直って、キリキリとする痛みを感じなくなる。
10時開会。シナリオ通り、進んでいく。議事すべてが終わり、何事もなく閉会。

入社以来、福島県いわき市に勤務していたとき以外、23年、株式実務を担当している。
特にここ2年は、株主総会の責任者として大変気を使う。幸い何事もなく終了。みんな、ありがとう。
何かあっては大問題。何もなければ、それが当たり前。
毎年毎年、この繰り返し。

須磨水族園に

約2年ぶりに、神戸の須磨水族園に行きました。今回は、娘のほかに家内も一緒でした。
JR神戸線須磨海浜公園に着いたのがすでに11時を過ぎていましたので、まずは水族園の手前の喫茶店で早い昼食をとることに。その後、水族園に入り、イルカショーを見ました。4頭のイルカに娘も大喜びです。そして、今回のお目当てのペンギン舎へ。マゼランペンギンしか見当たらなかったのですが、娘は地上で20分ぐらい時間をかけて、エサを貰っているところをじっくり観察です。そして地上から地階へ移ると水槽越しに泳ぐのが見れます。王子動物園でもそうでしたが、神戸では動物たちが間近で見られるのがうれしい点です。
園の中の遊園地で、娘はボートに乗りたいと言い出しました。それも一人で乗るというのです。少し前までは、こういったシーンでは必ず私か家内のどちらかが一緒でないとだめでしたが、一人で大丈夫と言うのです。それならと乗せました。乗せてから気づいたのですが、ボートが進むんで行くと途中で1.5mほどですが、上がっていき、そこから一気に落ちるようになっていました。ウォーターショットという乗り物でした。大丈夫か、と心配しましたが、娘はニコニコ笑っていました。聴くと、「乗り始めはぜんぜん前に進まないので、ゆっくり行くと思っていた。その後少しスピードが出たと思うと、今度は少し坂を上って行ったのでちょっと怖くなったが、降りるときは水がかかって気持ちよかった」。
次にメリーゴーランドにも乗り(これはほかに誰もおらず、貸切り状態)、園を出て前回と同様、元町ケーキに立ち寄りました。その後は南京町を横断し、少しばかりお土産を買って帰宅しました。
このところ、クルマを手放したほか、母の入院、長男の就職による一人暮らし開始など、我が家は少しばかりライフスタイルが変化しています。久々の娘を連れてのお出かけでした。

ABBAに隠れた名曲がありました

ABBAのアルバム“MORE GOLD”の最後に“THE WAY OLD FRIENDS DO”という曲があります。
多分ヒットはしなかったので、私も最近になって初めて聴いたことになると思います。
この曲を聴いたとき、聖歌か賛美歌をアレンジしたのでは、と思ったくらい、とにかくABBAのほかの曲とはまったく異なって荘厳です。
歌詞は次のとおり、大変シンプルです。

You and I can share the silence
Finding comfort together
The way old friends do
And after fights and words of violence
We make up with each other
The way old friends do

Times of joy and times of sorrow
We will always see it through
Oh I don't care what comes tomorrow
We can face it together
The way old friends do

(repeat)

We can face it together
The way old friends do

最近は、この曲を毎日必ず聴いてから寝ることにしています。

2012年はぜひ明るい年に

今年初めての記事です。
昨年は、大変な1年でした。今年はぜひ明るい年にしたいですね。
私のこのブログも、備忘のため、法律や聖書のことをもっと多く書きたいと思っています。

ABBAのFernando

前回、私が最近涙が出そうになるほど感動した曲があると書きましたが、それはABBAの"Fernando"。流行ったのは1976年、私が大学1年のときでした。
もちろん、当時もいい曲だと思っていたことは記憶していますが、歌詞はまったく理解していませんでした。
今年の夏にテレビでABBAの特集があり、すっかり自分のなかで再燃してしまいました。持っていたCDをiPod shuffleに入れたり、DVDを買ったり… たくさんの懐かしい曲で若い頃を思い出し、よく考えるとABBAのこの4人は自分よりも年上なんだなあとか、感慨にふけってしまいました。
さて、この"Fernando"の歌詞は次のとおりで、おそらく1846〜48年のアメリカ・メキシコ戦争で自由のために戦ったFernandoという人物のことを題材にしたものと思われます。

Can you hear the drums Fernando? I remember long ago another starry night like this.
In the firelight Fernando, you were humming to yourself and softly strumming your guitar.
I could hear the distant drums and sounds of bugle calls were coming from afar.
 
They were closer now Fernando, every hour every minute seemed to last eternally.
I was so afraid Fernando, we were young and full of life and none of us prepared to die.
And I'm not ashamed to say the roar of guns and cannons almost made me cry.
 
There was something in the air that night, the stars were bright, Fernando.
They were shining there for you and me, for liberty, Fernando.
Though we never thought that we could lose, there's no regret.
If I had to do the same again I would, my friend, Fernando.
If I had to do the same again I would, my friend, Fernando.
 
Now we're old and grey Fernando, since many years I haven't seen a rifle in your hand.
Can you hear the drums Fernando? Do you still recall the fateful night we crossed the Rio Grande?
I can see it in your eyes how proud you were to fight for freedom in this land.
 
There was something in the air that night, the stars were bright, Fernando.
They were shining there for you and me, for liberty, Fernando.
Though we never thought that we could lose, there's no regret.
If I had to do the same again I would, my friend, Fernando.
 
There was something in the air that night. The stars were bright, Fernando.
They were shining there for you and me, for liberty, Fernando.
Though we never thought that we could lose, there's no regret.
If I had to do the same again I would, my friend, Fernando.
Yes, if I had to do the same again I would, my friend, Fernando.

この歌詞の美しい描写とともに、特に「私たちは若くて、だれ一人死ぬ心づもりをしていなかった」、「負けるとは思っていなかったが、後悔しない。同じことが起きたら、きっと同じようにする」というところに心打たれました。
50台半ばになって、ちょっと気弱になっているのかな。自分ではまだまだ若い、と思っているのですが…