父の死

4月9日に父が死去しました。82歳でしたが、ここ20年は難病「後縦靭帯骨化症」との闘いでした。手術も受けましたが、結局この病のため、父は歩けなくなりました。兄から危篤と知らされていた私は、8日、東京出張を終え入院先に駆けつけると既に意識はなく、それでいて安定していたので、私はいったん帰宅しました。
ところが、しばらくして兄から、医者から家族に来るように連絡があったと電話があり、再び病院に。
随分声がけをしましたが、9日の午前3時22分に静かに息を引き取りました。死因は多臓器不全でした。
私は、3歳のとき農業用の肥溜めに落ち危うく死にかけたり、その後も電車の線路に石か空き缶を置いて父からきつく叱られた記憶があります。しかも大学は留年のうえ2年も就職浪人し、さんざん迷惑をかけてしまいました。
退職後は、病気さえなければ、また私がもっとしっかりしていれば、母と悠々自適のセカンドライフを送ることができたはずだったのにと思うと、残念です。

さて、葬儀は家族葬でしかも無宗教で行いました。生前父から葬式をこういうふうにしてほしいという要望もなく、父自身も特に信仰を持っていなかったからです。日本人は、こういうケースでも仏式をするのでしょうが、面識も何もない、葬儀屋の紹介でどこかの僧侶に来てもらうなど、私には到底理解できないことです。
一部の親戚から、こんな葬式は理解できないとの声もありましたが、一人ひとり菊を献花していただき、最終的にはこういうやり方もあるのか、と納得していただきました。

少し前のことですが、私の教会の牧師が入院中の父を見舞ってくださったことがあります。父にとっては、キリスト教の牧師と話をするのは多分初めてのことだったと思います。牧師先生は、話をよく聴いてくださったと言われましたが、私からもっとキリストのことを話しておくべきだったと後悔されます。

これまで、義母のほか、何人かの叔父や叔母、いとこが亡くなりましたが、実の父の死を経験し、人の命のはかなさを思い知らされました。誰でもいつか必ず死ぬということはわかっているのですが、また父の場合は長年病床にあったのですから、死が遠くはないということは十分承知していたはずでしたが、後悔や悲しみ、疲れは、しばらく経ってからじわじわと押し寄せてきました。加えて仕事も特別に忙しかったこともあり、ようやくこの連休で立ち直れたと思います。